火の神話学 第6章 明かりが開く近代
### 照明の分離
長い間、人類にとって火の三大機能といえば、煮炊き、暖房、照明であった。
生活に直結する機能としてはそうかもしれない。
時代が進むにつれて、火の三大機能の一体感は薄れてくる。最初に分離したのは照明だった。
縄文時代の竪穴住居の地炉から炉へと展開していく様子を見たり、他の考古学の発掘成果を考えるなら、炊事の火が分化したのは弥生時代からだと言えるだろう(宮本響太郎『燈火――その種類と変遷』朝文社、一九九四年)。そして古墳時代になると、カマドが登場した。ここに至って、本格的に炊事の日は独立することになる。
しかし、イロリはカマドとは異なって、実に長い間、火の三大機能が一体化して見られる場であった。つまり、イロリは採暖、炊事を中心に、照明の機能をも果たしたのである。
日本に絞って歴史を考えるだけでも、イロリはかなり最近まで主役であったはず。
ちなみにヨーロッパの場合、暖房と炊事は結びついていることが多く、ギリシア時代の炉からストーブに至るまで、庶民階級の間では様々なヴァリエーションと工夫が見られた。もっとも金持ちや貴族の館での豪華で装飾的な暖炉の場合には、採暖だけが主たる目的であったようだが。
ここで地域によって違いがみられるのはおもしろいあおぎり.icon
地炉やイロリから照明の火が、いつ分かれるようになったかは、明らかでない。ただ、地炉やイロリで様々な木を炊いているうちに、人々はとりわけ明るく燃える木を発見したに違いない。例えば脂の多い松の根株といった、そうした特別な木の火を地炉やイロリの火から取り分け、それを家の灯りに用いることによって、照明専用の火が誕生したと思われる。
### タイマツからロウソクへ
さて、このように技術革新が加えられたタイマツであったが、その長い歴史も、やがてロウソクが登場するようになって、先に述べた行事や儀礼を除いては、消えていくことになる。
機能的に代替可能で、利便性が向上したものに、置き換わる。
タイマツでは、火が燃える場所と燃料が同一である。ところがロウソクの場合、灯芯が燃焼の場となる。それは燃料であるロウの部分とは分離している。この一点こそが、タイマツとロウソクを区別する決定的な要因なのだ。だからシヴェルブシュは次のように言うのである。
「照明専用にともされるあかりは、灯芯にゆらめく焰をもって嚆矢とする。灯芯は、人工照明の発展史上、ちょうど運輸技術史における車輪と同じような革命を意味した。」
ロウは燃えない。灯芯が燃える。
これはすごいことのように思えるが、いまひとつピンとこない。端的に言えば、「何がウレシイの?」。
最後に、ロウソクの焔の持つ、重要な心理学的意味について述べておこう。薪とかタイマツは燃えるにつれて物理的に消失していく。それに比してロウソクの場合、灯芯の焰はほとんどなんの変化も見せずに燃え続ける。もちろん、芯を切る必要があったし、数時間経てばロウの部分もなくなってしまうのだが、それにしてもタイマツと比べれば違いは歴然としている。その違いについて、シヴェルブシュは次のように言う。
「これがタイマツであれば、依然として火は原初の破壊力を孕んでいた。つまり、野放図な衝動の世界そのものを人間に感じさせたと言える。静まりかえって燃え続ける蝋燭の炎となったとき、火は、そのような照明を生み出した文化と同じように、鎮圧され、矯正されたのだった。」
なぜ、デカルトとパスカルの世紀であった一七世紀に、カラヴァッジオ派の人々やジョルジュ・ド・ラ・トゥールをはじめロウソクの火――その光と影――について描く画家が出現したのか、その秘密を解く鍵はこの辺にありそうだ。
おおお。
これこそが、照明機能の分離。
ただの火から、照明機能だけを抽出したものがロウソクであり、それはもはや人工的な火となった。
### ランプから電球へ
いずれにせよ、それまでの菜種油などに代わって、ランプの導入とともに、もっぱら石油が灯火具の燃料として用いられるようになった。
それは一七七〇年代にまで遡る。その頃ラヴォワジエが、燃焼には本来に燃料に含まれた炭素だけでなく、空中の酸素も必要だということを発見した。ばならない。
こうしたラヴォワジエの燃焼理論をいち早く取り入れて、一七八三年にフランソワ・アミ・アルガンがより改良されたランプをパリで公開した。
続いて登場するのがガス灯である。
ガス灯はとりわけイギリスで、大規模に展開された。それは産業革命を推進した石炭産業と深く関わっている。つまり、ガスの製造はコークスの製法と重なり、いわば廃棄物を活用して作られるものだった。
この二つの展開、つまり、産業用と家庭用を、合体させることによって近代的なガス照明が誕生する。それを成し遂げた人物こそ、フリードリヒ・A・ウィンザーというイギリスに亡命したドイツ人だった。彼自身の事業は成功せず、彼は貧困のうちにパリで死ななければならなかった(一八三〇年)。
しかし、ウィンザーの、ガスを中央生産所から導管を使って消費者に提供するという理念は生き延びる。この理念自体は、すでに存在している水道の給水をモデルにしたものなので、画期的だとは言えないかもしれない。でも人間と火の関係を考える私たちにとっては、実に大きな意味を持つものなのだ。
なぜなら、集中ガス供給システムは集中暖房の大衆化を意味していたので、それが家庭を結びついた結果、家庭での自給自足が終焉することになるからである。つまり、「今や家庭は原始時代以来、家庭の心臓部でもあり生活の中心でもあったかまどの火を明け渡してしまった」のである。
今では当たり前のガスに、こんな意味があるなんてまったくの驚きである。
ガス灯はただの照明の技術進化だと思っていたが、まさかカマドの終焉に結びついていたとは。
テクノロジーの進化が、人々のライフスタイルを変えた。これぞ破壊的イノベーションと言えるもの。
生活の中心であったカマドが、家から消えてしまった。そのとき、何が生活の中心になったのだろうか。
余談だが、主に戦後、家における生活の中心がテレビになったことは、近現代の社会を考える上で、頭の片隅においておきたい。
先にガス灯には灯芯がないと書いた。このことには重要な意味がある。灯芯がなくなったことで、焰ははじめて自立した。焰は上下左右どの方向にも、またかつては考えられもしなかった自由な大きさで、広がることができるようになった。ガス灯は人間に照明の自由を与えるかに思えた。しかしそれが実用化するには、電気の登場を待たねばならない。
おおおおお!
これは、人類史上かなりの大事件なのでは。
自然界に存在した火を管理することで生活を成り立たせ文化を築き上げてきた人類が、管理ではなく火を生み出す側にまわったと言える。
ガスの流入を調節するだけで、火の大きさと方向を変えられる。
すでに見たように、ガス灯は灯芯を使わないことでロウソクやランプより進化した。ところが電灯は焰を使わないことによって、ガス灯よりさらに進化することになる。
それではエジソンの偉大さがどこにあったのかと言えば、それは右に見たような様々な発見と発明を総合し、実用化のために技術的統一をはかったことにある。おまけにエジソンは宣伝の才能に恵まれていた。
シヴェルブシュによると、エジソンの目標は「ガス灯のあらゆる特性を備えた白熱灯をつくりだすこと」であった。つまり、「ガス灯のように穏やかな光を放つ小さなあかりをつくること」だ。そのためにエジソンは、ガス灯という既存の光力を"模倣する"ことに努めた。
### 照明と都市
多彩な照明によって近代都市が誕生した。鼻をつままれても分からぬような闇は、都市から消滅した。同時に、数十年前まであんなに輝いていた星空も、見えなくなってしまった。
火がテーマなのに、都市の話にまで発展してしまった。
火が人類に密接に結びついていることの再確認。